「外に出る祈り」 泉清隆
八島博子さんの書棚から加藤常昭著の「祈り」という 本を戴きました。 その本の「はじめに」というところで紹介されているの が、(宗教)改革者ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』 の中に、祈りについての深い考察です。 「初版の第三章『祈りについて』に『これまでに論じら れてきたことどもから、人間がいかに善を欠き空しいか、 救いに到るどんな助けを持たないかを私たちははっきり と見た。そこで、もし人が自分の困窮の助けとなるような 助力を求めるなら、彼は自分の外へ出て、別の場所で助 けを見出さなければならない』」(久米あつみ訳『キリスト教綱 要』、宗教改革著作集、第九巻、教文館、119頁)。(中略) 「ここから、祈りへの考察が始まり、主の祈りの講解に 移るのです。『自分の外へ出る』こと、それが祈りである と言うのです。祈りは、人間の魂の最も深いところで営ま れ、底から生まれる言葉によって語られるものであると思 いますが、しかし、それは、自分の内面に留まり、神と対話 しているつもりで実際は自分を見つめ、自分と語ってい るだけで終わる誘惑にさらされています。
「主に感謝せよ」 泉清隆
新共同訳と協会共同訳聖書には旧約聖書続編と呼 ばれるものがあります。この文書は1世紀末ユダヤ教で 聖書の正典目録を定めるときに受け入れられず、ユダヤ 人の聖書には含まれていませんがもともとはユダヤ教の 文書です。今日、カトリック教会では旧約聖書と同等の 価値があるとされ「第二正典」と呼ばれます。但し、「エ ズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」「マナセの 祈り」はカトリック教会も「アポクリファ」隠されたもの(偽 典)と呼んでいます。プロテスタントの教会では、価値を 認める教会もあれば、これらのすべてを全く認めない教 会もあり、旧約聖書続編は「アポクリファ」偽典になりま す。 今日のダニエル書3章の「三人の仲間たちの試練」 に関連するものとして、「ダニエル書補遺(ほい)アザルヤ の祈りと三人の若者の賛歌」というものがあります。この アザルヤはユダ出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエルと 一緒の4人組です。彼らはバビロンの名前をつけられま した。ここではアベド・ネゴと名前をつけられたアザルヤ が賛美しています。協会共同訳続編から引用します。..
証し H.T
私は1937年、福岡県苅田町に六人兄弟の二番目に 生まれました。五歳の時幼稚園で最初に学んだのは、本 堂にある大きな仏様に合唱礼拝する事でした。信仰は幼 い頃より培われることの大切さを思います。敗戦を迎え たのは小学二年生でした。欧米と戦争をし、飛行機で爆 撃を受け、食糧不足におちいり、真実でない情報を聞き、 恐ろしい爆弾を広島長崎に落とされ、多くの尊い人の命 や生き物をも犠牲となり敗戦を迎えました。負の遺産は いまだ重く残っています。そんな私の戦争記憶です。 中学2年生になると進学・就職組に分けられました。な んともいやなことでした。私は家庭の状況により就職する ことに決めました。15歳で不安な中個人経営の鉄工所 へ就職しました。 1957年、町の公民館で青年学級が開校され、視聴 覚教材を製作して、それを使って、お寺などで上映する のです。当時の子どもたちにはそんな作品をも喜んでも らえました。その製作グループの中に西南大学神学部の 方がいました。家庭集会の案内もいただき参加しました が、礼拝や讃美歌、祈りなど違和感のある集会の中で一...
イエスさまからのメッセージ 金子政彦
1.『俺はまだ死んでないぜ 未来はまだ輝いてるぜ 君はまだ俺を好きか…』 真心ブラザーズ『明日はどっちだ!』は、2001年4月 に発表された彼らの21枚目のシングル曲である。私が この曲を初めて聴いたとき、困難の中にあっても希望を あきらめない、応援ソング・ラブソングかと思った。今、人 生の行き詰まりを体験している私の心に響いた歌詞で あったが、何かそれだけではないものを直観的に感じ、C Dを買い求めた。この曲は、私がランニングするときの愛 聴曲である。 2.『…やること全部裏目に出た それも分かってる 命がゆっくり潰されていくんだ 俺の心も体もズタズ タのボロキレだ…』 考えても仕方のないことを頭の中で繰り返し考えてし まったり、ぐっすり眠れなくなったり、就寝中汗だくになっ たり、不安にさいなまれたりすることがある。心の弱った 私が、人生の行き詰まりをストレートに表現した歌詞に、 ただ共感しただけなのか?自分の想いを代弁してくれる 詩は、めずらしくはない。しかし、私が求めていることば は、今、絶望的な私の認識(認知のゆがみ)を、ひっくり返...
「洗礼を思いたつ心の起こるとき…」 泉清隆
美野島司牧センターニュースから、 以前マルセル神父から「念仏はなぜ称えるのです か?」と聞かれたことがあります。 私は「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、す なわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)(おさめ取って捨てな い)の利益にあずけしめたまうなり」親鸞聖人の言葉を 紹介し、「称えて救われるのではなく、すでに救われてい る事に目覚めたとき自然に出てくるのが念仏なんです よ。」そんな事を言ったと思います。 マルセル神父はご自身の教誨師の経験をお話しくだ さいました。出会われた死刑囚の方が獄中でキリスト教 に目覚められマルセル神父から洗礼を受けることを希望 されたそうです。しかし洗礼前に刑が執行されてしまい、 それが叶うことはありませんでした。マルセル神父は「洗 礼を受けようと思った時、すでに洗礼は終わっているん です。」そう言われました。洗礼や念仏は救いの条件で はなく、すでに至り届いていた救いの結果である。何か 深いものが共有された気がしました。仏教では「切り口 の違いで決めつけることをしてはいけない。」と言います。 マルセル神父が帰国される

