「祈りの課題」 泉清隆
東北バプテスト連合被災支援委員会が祈りの課題 を作成してくださいましたので、次週の礼拝に備え て掲載します。 *東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事 故から15年を数えます。北海道から千葉県に至る、 東日本の広範囲の地域で被災きれた方々に主の慰め がありますように。 *今もなお避難を余儀なくきれている方々に、主の 守りと支えが豊かにありますように。 *これからも引き続き起こるであろう災害への備え ができますように。そして、東日本大震災の様々な 経験が活かきれますように。 *東京電力福島第一原発の事故によって放出され た、大量の放射性物質による健康被害から守られま すように。そして、「廃炉」や「汚染土・汚染水」 処理が安全に進みますように。 *国内のいくつもの原子力発電所が再稼働されよう とする中、各地で想定きれる巨大地震と、原子力発 電所の持つ危険性を忘れることがありませんよう に。そして再び、原子力発電所に関わるあらゆる事 故が起きませんように。 *能登半島地震をはじめ、国内外で起こっている自 然災害で被災きれた方々に、主の慰めが豊かに
証し M.T
私はクリスチャンホームで生まれ育ちました。 そのた め、イエス様の存在や教会に通うことに対して抵抗はな く、それが当たり前の環境で過ごしてきました。 家族全 員がクリスチャンであり、教会に通っている友達も多く、 彼らもバプテスマを受けていたため、私もその流れに乗 るようにして、自分がクリスチャンであることを告白し、バ プテスマを受けました。 しかし、心の底から信じていたわ けではなく、信仰に対してどこか他人事のような、不信仰 な状態で過ごしていました。 そんな私が25歳の時、父 が交通事故に遭い、約2週間、意識不明の状態が続きま した。 あまりにも突然の出来事で、現実を受け入れるこ とができませんでした。 人生で初めて、イエス様に向か って「どうか父の意識が戻りますように」と、必死に祈り 続けました。 しかし祈りは応えられることなく、父は意識 が戻ることなく天に召されました。 この出来事をきっか けに、私はイエス様や聖書との向き合い方を深く考える ようになりました。 「私の不信仰のせいでこうなったので はないか」「神様は私に罰を与えたのではないか
「どこにいても、いつになっても、誰に対しても」 高田佐紀子
私は古賀教会に2008年3月まで通っておりました。2004年のイースターに ここで受洗しました。教員として、福岡工大城東高校に勤務しておりました が、現在は仙台の東北学院中高に奉職しております。本日、5年ぶりに古賀教 会を訪れることになり、証の機会までいただき、大変光栄です。 本日の証タイトルと聖書引用箇所は、スライドにある通りですが、「場所」 という横軸と「時間」という縦軸をもとに、そこに連なる「人」を介して、 キリストの愛の施しについて、ご一緒に共有いただければ幸いです。 私はもともと、宗像市に生まれましたが、佐賀県嬉野町(母の実家)に引っ 越し、そこで育ちました。古賀海岸はお気に入りの場所で、よく散歩に行っ ていました。 さて、はじめに「どこにいても」という場所(横軸)の観点です。仙台教会 を少しご紹介します。仙台市グッドデザイン賞を受賞した、赤色をモチーフ にした会堂で、仙台の市街地(地下鉄駅隣接)に位置し、一階には幼稚園があ ります。現在は宇都宮牧師、前任は泉先生の神学校同級生の小河牧師(福岡 出身)でした。この仙台教会には、古賀教会に
【最上の賜物】 木村憲子
この世の最上の業は何? 楽しい心で年をとり、 働きたいけれど休み、しゃべりたけれども黙り、失 望しそうなときに希望し、柔順に、平静に、おのれ の十字架を担う。 若者が元気いっぱいで神のみちをあゆむのを見て も、ねたまず、ひとのために働くよりも、けんきょ に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立 たずとも、親切で柔和であること。 老いの重荷は「神の賜物」、古びた心に、これで 最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くた めに。 おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしてい くのは、まことにえらい仕事。こうして何もできな くなれば、それを謙虚に承諾するのだ。 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。 手は何も出来ないけれども最後まで祈りができ る。 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるた めに。 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだ ろう。 これが神が最後に残してくださる最上の仕事。 「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。 この詩は、ホイヴェルス神父がドイツ帰国時に友 人から送られたものである。人生の
「外に出る祈り」 泉清隆
八島博子さんの書棚から加藤常昭著の「祈り」という 本を戴きました。 その本の「はじめに」というところで紹介されているの が、(宗教)改革者ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』 の中に、祈りについての深い考察です。 「初版の第三章『祈りについて』に『これまでに論じら れてきたことどもから、人間がいかに善を欠き空しいか、 救いに到るどんな助けを持たないかを私たちははっきり と見た。そこで、もし人が自分の困窮の助けとなるような 助力を求めるなら、彼は自分の外へ出て、別の場所で助 けを見出さなければならない』」(久米あつみ訳『キリスト教綱 要』、宗教改革著作集、第九巻、教文館、119頁)。(中略) 「ここから、祈りへの考察が始まり、主の祈りの講解に 移るのです。『自分の外へ出る』こと、それが祈りである と言うのです。祈りは、人間の魂の最も深いところで営ま れ、底から生まれる言葉によって語られるものであると思 いますが、しかし、それは、自分の内面に留まり、神と対話 しているつもりで実際は自分を見つめ、自分と語ってい るだけで終わる誘惑にさらされています。
「主に感謝せよ」 泉清隆
新共同訳と協会共同訳聖書には旧約聖書続編と呼 ばれるものがあります。この文書は1世紀末ユダヤ教で 聖書の正典目録を定めるときに受け入れられず、ユダヤ 人の聖書には含まれていませんがもともとはユダヤ教の 文書です。今日、カトリック教会では旧約聖書と同等の 価値があるとされ「第二正典」と呼ばれます。但し、「エ ズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」「マナセの 祈り」はカトリック教会も「アポクリファ」隠されたもの(偽 典)と呼んでいます。プロテスタントの教会では、価値を 認める教会もあれば、これらのすべてを全く認めない教 会もあり、旧約聖書続編は「アポクリファ」偽典になりま す。 今日のダニエル書3章の「三人の仲間たちの試練」 に関連するものとして、「ダニエル書補遺(ほい)アザルヤ の祈りと三人の若者の賛歌」というものがあります。この アザルヤはユダ出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエルと 一緒の4人組です。彼らはバビロンの名前をつけられま した。ここではアベド・ネゴと名前をつけられたアザルヤ が賛美しています。協会共同訳続編から引用します。..
証し H.T
私は1937年、福岡県苅田町に六人兄弟の二番目に 生まれました。五歳の時幼稚園で最初に学んだのは、本 堂にある大きな仏様に合唱礼拝する事でした。信仰は幼 い頃より培われることの大切さを思います。敗戦を迎え たのは小学二年生でした。欧米と戦争をし、飛行機で爆 撃を受け、食糧不足におちいり、真実でない情報を聞き、 恐ろしい爆弾を広島長崎に落とされ、多くの尊い人の命 や生き物をも犠牲となり敗戦を迎えました。負の遺産は いまだ重く残っています。そんな私の戦争記憶です。 中学2年生になると進学・就職組に分けられました。な んともいやなことでした。私は家庭の状況により就職する ことに決めました。15歳で不安な中個人経営の鉄工所 へ就職しました。 1957年、町の公民館で青年学級が開校され、視聴 覚教材を製作して、それを使って、お寺などで上映する のです。当時の子どもたちにはそんな作品をも喜んでも らえました。その製作グループの中に西南大学神学部の 方がいました。家庭集会の案内もいただき参加しました が、礼拝や讃美歌、祈りなど違和感のある集会の中で一...
イエスさまからのメッセージ 金子政彦
1.『俺はまだ死んでないぜ 未来はまだ輝いてるぜ 君はまだ俺を好きか…』 真心ブラザーズ『明日はどっちだ!』は、2001年4月 に発表された彼らの21枚目のシングル曲である。私が この曲を初めて聴いたとき、困難の中にあっても希望を あきらめない、応援ソング・ラブソングかと思った。今、人 生の行き詰まりを体験している私の心に響いた歌詞で あったが、何かそれだけではないものを直観的に感じ、C Dを買い求めた。この曲は、私がランニングするときの愛 聴曲である。 2.『…やること全部裏目に出た それも分かってる 命がゆっくり潰されていくんだ 俺の心も体もズタズ タのボロキレだ…』 考えても仕方のないことを頭の中で繰り返し考えてし まったり、ぐっすり眠れなくなったり、就寝中汗だくになっ たり、不安にさいなまれたりすることがある。心の弱った 私が、人生の行き詰まりをストレートに表現した歌詞に、 ただ共感しただけなのか?自分の想いを代弁してくれる 詩は、めずらしくはない。しかし、私が求めていることば は、今、絶望的な私の認識(認知のゆがみ)を、ひっくり返...
「洗礼を思いたつ心の起こるとき…」 泉清隆
美野島司牧センターニュースから、 以前マルセル神父から「念仏はなぜ称えるのです か?」と聞かれたことがあります。 私は「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、す なわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)(おさめ取って捨てな い)の利益にあずけしめたまうなり」親鸞聖人の言葉を 紹介し、「称えて救われるのではなく、すでに救われてい る事に目覚めたとき自然に出てくるのが念仏なんです よ。」そんな事を言ったと思います。 マルセル神父はご自身の教誨師の経験をお話しくだ さいました。出会われた死刑囚の方が獄中でキリスト教 に目覚められマルセル神父から洗礼を受けることを希望 されたそうです。しかし洗礼前に刑が執行されてしまい、 それが叶うことはありませんでした。マルセル神父は「洗 礼を受けようと思った時、すでに洗礼は終わっているん です。」そう言われました。洗礼や念仏は救いの条件で はなく、すでに至り届いていた救いの結果である。何か 深いものが共有された気がしました。仏教では「切り口 の違いで決めつけることをしてはいけない。」と言います。 マルセル神父が帰国される
「多様性を認め合う」 泉清隆
2025年度の西南学院大学神学部の「道」に掲載さ れていたものに教えられましたので須藤伊知郎さん の許可を得て掲載します。 「キリストの中へとすっかり沈められたあなた方は 皆、キリスト〔の中に入ってそれ〕を着たのである。 その中にはユダヤ人もギリシア人もない。その中に は奴隷も自由人もない。その中には雄と雌はない。 というのはあなた方は皆、キリスト・イエス〔の中〕 において一人だからである。」(ガラテヤ書3章27~2 8節)この言葉はバプテスマの際に唱えられた定式 で、男女が平等に活動していた原始キリスト教最初 期の宣教運動から生まれました。その男女が平等な 宣教活動は元を辿ればイエスの宣教、彼の周りに集 められた平等な弟子集団が行なった伝道活動に促さ れたものと思われます。彼ら/彼女らがその平等性 を言葉にする時に創世記1章27節の言葉づかいと神 話的な表象が用いられました。 創世記1:27は、神は人格的な関係性そのもので ある、人はその人格的な応答関係に生きるべく創造 されたのだという宣言です。「そして神は人を彼の 像に神の像(かたち)に彼を

