弱さの中にある力 ルカによる福音書 1:46~55
マリアの賛歌(ルカ1:46~55)の第一声は「あがめます」(メガリュオー)で、その意味は「大きくする」です。神を大きくすること、即ち神の前に自分が小さくなること、それが「あがめる」の意味です。「自分を徹底的に小さくすること」、ここにこそクリスマスを迎える者の姿があります。し...
主を待ち望むアドベント 「コリントの信徒への手紙二 5:16~21」
キリスト教信仰は自分だけがこの世の迷いやしがらみから解放されて悟りを開くこと、いわゆる「解脱」の境地に至ることを意味しません。むしろ、混迷するこの世に身を置いて、そこに共にある人々や他の被造物と、迷いやうめきを共有し、互いの関係を良いものに作り変えていくことにあると言えまし...
「わたしたち」の幻 使徒言行録16:6~15
去る11月12~14日、伊豆天城山荘で開催された第60回日本バプテスト連盟総会において理事会が提出した「2015年度活動計画案」が否決されました。長い連盟の歴史の中で理事会からの「活動計画案」が否決されたのは初めてのことだと思います。いつもの年であれば「さあ、来年も協力伝道...
「愛に生きよ」 マタイによる福音書 5章38~42節
今朝の聖書箇所は、「あなたがたも聞いているとおり」といって、よく知られた「目には目を、歯には歯を」という古い戒めから始まります。これは旧約聖書の出エジプト記21章22~25節、レビ記24章20節などにも記されています。古くはバビロン(現在はイラクの首都バグダッドの南約90キ...
「全世界に行って…」 マルコによる福音書 16章14~18節
マルコ福音書16章は、復活の朝の出来事から始まって、イエスが天に帰られるまでのいきさつが記されています。マルコによれば、復活のイエスはまずマグダラのマリアにご自分をお示しになります。彼女はイエスにお会いしたあと、その死を嘆き悲しんでいた人たちに復活の事実を伝えます。ところが...
「祈りを動機づけるもの」 マタイによる福音書 6:5~15
「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7:1)とは主イエスからの約束のお言葉です。しかし、祈り求めてもなかなか思うように与えられません。祈りの力が足りないからでしょうか。確かにこの言葉は「求め続けなさい」の意ですから、求める頻度に問題があるのかもしれません。この世の...
「神の御業は未来形」 ルカによる福音書 19:1~10
いよいよ主イエスが処刑の地、エルサレムに向かう最後の場面です。イエスは弟子たちと一緒にリコの町に入り、そこを通過しようとされていました。その時、イエスはイチジク桑の木の上に身を潜めている一人の男を認め、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」...
「生きる意味」を与えられる神 マルコによる福音書 2章13~17節
今日の聖書で、まず私たちはイエスが群衆に囲まれておられる姿を見るのです。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」-2:13より-と、マルコは何か当然のことのように伝えていますが、人々はあちらからこちらから「ぞくぞくと」イエスのうわさを聞きつけてやってきたのです...
「イエスのまなざしの中で」 マタイによる福音書 9:35~38
伝道とはイエスのまなざしを受けた人が、同じまなざしに立つことで始まります。その動機は愛であり憐みです。イエスの愛と憐みに見出されたことの喜びが周囲の人々へと向かう時、そこに伝道が始まります。確かに、伝道はキリスト者としての当然の義務であり、責任です。しかしそれ以上に、心の底...
「福音を伝える使命と責任」 エゼキエル書 33章1~6、11節
紀元前6世紀、イスラエルの民はバビロニア帝国によって、捕囚の身となっていました。国を追われ、拠りどころとする神信仰を維持することさえ危うい状況にあった人々に、神はイスラエル再興の道程を伝えようとしました。しかし、文化的にははるかに豊かな都市バビロンに生活の場を移した人々に「...