「愛に生きよ」 マタイによる福音書 5章38~42節今朝の聖書箇所は、「あなたがたも聞いているとおり」といって、よく知られた「目には目を、歯には歯を」という古い戒めから始まります。これは旧約聖書の出エジプト記21章22~25節、レビ記24章20節などにも記されています。古くはバビロン(現在はイラクの首都バグダッドの南約90キ...
「全世界に行って…」 マルコによる福音書 16章14~18節マルコ福音書16章は、復活の朝の出来事から始まって、イエスが天に帰られるまでのいきさつが記されています。マルコによれば、復活のイエスはまずマグダラのマリアにご自分をお示しになります。彼女はイエスにお会いしたあと、その死を嘆き悲しんでいた人たちに復活の事実を伝えます。ところが...
「祈りを動機づけるもの」 マタイによる福音書 6:5~15「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7:1)とは主イエスからの約束のお言葉です。しかし、祈り求めてもなかなか思うように与えられません。祈りの力が足りないからでしょうか。確かにこの言葉は「求め続けなさい」の意ですから、求める頻度に問題があるのかもしれません。この世の...
「神の御業は未来形」 ルカによる福音書 19:1~10いよいよ主イエスが処刑の地、エルサレムに向かう最後の場面です。イエスは弟子たちと一緒にリコの町に入り、そこを通過しようとされていました。その時、イエスはイチジク桑の木の上に身を潜めている一人の男を認め、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」...
「生きる意味」を与えられる神 マルコによる福音書 2章13~17節今日の聖書で、まず私たちはイエスが群衆に囲まれておられる姿を見るのです。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」-2:13より-と、マルコは何か当然のことのように伝えていますが、人々はあちらからこちらから「ぞくぞくと」イエスのうわさを聞きつけてやってきたのです...
「イエスのまなざしの中で」 マタイによる福音書 9:35~38伝道とはイエスのまなざしを受けた人が、同じまなざしに立つことで始まります。その動機は愛であり憐みです。イエスの愛と憐みに見出されたことの喜びが周囲の人々へと向かう時、そこに伝道が始まります。確かに、伝道はキリスト者としての当然の義務であり、責任です。しかしそれ以上に、心の底...
「福音を伝える使命と責任」 エゼキエル書 33章1~6、11節紀元前6世紀、イスラエルの民はバビロニア帝国によって、捕囚の身となっていました。国を追われ、拠りどころとする神信仰を維持することさえ危うい状況にあった人々に、神はイスラエル再興の道程を伝えようとしました。しかし、文化的にははるかに豊かな都市バビロンに生活の場を移した人々に「...
「神に心を向けて」 コヘレトの言葉 11:9~12:2今朝ごいっしょにお読みした「コヘレトの言葉」は、「伝道の書」という口語訳聖書の書名で慣れ親しんでこられた方も多いのではないでしょうか。「コヘレト」とは「集める者」を意味し、ここから「人々を集め、教えを伝えた者」という解釈がなされ、「伝道の書」という書名がついたと言われます(...
「主告白こそ先達の喜び」 フィリピの信徒への手紙 2章1~11節フィリピの信徒への手紙は、伝道のために迫害を受け投獄されているパウロからの激励の手紙です。彼は獄中の自分のことよりも教会のことが心配です。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、...
「互いに足を洗いなさい」 ヨハネによる福音書13章3~17節ヨハネ13章は過越祭が近づいた時の出来事を記しています。この過越祭は生前のイエスさまの最期と重なります。いよいよ主イエスは「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)として全ての罪人の罪を引き受け十字架へと向かわれます。ヨハネは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来た...