神は存在するのか? (出エジプト記3:7~15)
日本には「困った時の神頼み」と言うことわざがあります。普段は「私は無神論者」だと気取っていても、いざ足許が危うくなれば「神さま助けて」となるのです。しかし、その時に呼びかける神さまとは果たして「誰」なのでしょうか?その時だけ都合よく現れてくれる守護神なのでしょうか。受験の神...
弱さを知る者を用いて (ヨハネによる福音書21章15~17節)
主イエスが公の生涯を歩まれた3年あまりの間、それは弟子たちにとって至福の日々でした。彼らは間近で主イエスの教えを聞き、病人や差別されている人々への優しいまなざしや、正義と公平への毅然とした態度にも接してきました。そのような日々の経験から、弟子たちは、「このお方こそイスラエル...
はじめに神の赦しが Ⅱコリント6:3~13
今朝の聖書の冒頭でパウロは「わたしたちはこの奉仕の務めが 非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず・・・」-Ⅱコリント6:3-と言っています。彼は、クリスチャンには神から託された「務め」があると言っているのです。少しさかのぼって5章18節には「神は、キリストを通...
イエスさまが存在する日々 (ヨハネによる福音書20章19~23節)
イースターおめでとうございます。世界の暦の中にこの日があることは驚きです。それは「日曜日」のことです。この日がなぜ週の初めの日なのか、多くの人は気づかずに過ごしています。勿論、この日は単なる7日ごとの休日ではありません。十字架上で息を引き取られ、死んで墓に葬られたイエスが復...
「子ろばに乗って」 マルコによる福音書 11章1~11節
ここに記されている物語は、「主イエスのエルサレム入城」、そう呼ばれます。これは日曜日の出来事だと推測することができますので、「棕櫚(しゅろ)の日曜日の物語」とも呼ばれます。では、このマルコによる福音書には、棕櫚という植物の名前が出てくるわけではありません。ヨハネによる福音書...
サウロの回心 (使徒言行録9章1~19a節)
一般に、悪い心を改めることを「改心」と言い表します。「非行からの改心」など言う場合に用います。これに似た言葉に「回心」があります。これはキリスト教用語で、この世の価値基準から神を神とする信仰基準に立ち返ることを表す言葉です。聖書ではしばしば「悔い改め(メタノイア/180度の...
砕かれ悔いる心を待つ神 (詩編51編12~19節)
紀元前1000年、今から3000年も前の出来事が今も語り継がれています。それは隆盛を極めたダビデ王の大失態の話です。聖書がこのような「恥ずべきこと」をいつまでも語り伝えているのは驚きです、と感じるのは、正に私が「恥意識」に支配されているからかもしれません。...
「『神の時』を見据えて」 マタイによる福音書 9章14~17節
今朝お読みしたマタイ福音書9章14~17節で、私たちはイエスの「福音」と、それまでのイスラエル社会が大切にしてきた「律法」がぶつかりあう光景を目にします。 さて、断食はイスラエル社会においては敬虔さ(信心深さ)のしるしでした。バプテスマのヨハネの弟子たちは師匠にならって節制...
贖罪、償いの約束 (ヘブライ人への手紙 9章23~28節)
先日何気なくテレビ番組「徹子の部屋」を観ていますと、プロゴルファーの宮里藍が出演していました。その中で、彼女のような優秀なプロ選手でも一打失敗すると精神的動揺で、次々とスコアを落としてしまうと語っていました。それを防ぐためには技術トレーナではなくメンタルトレーナーが「さあ、...
「荒野の誘惑」 マタイによる福音書 4章1~11節 大野裕昭
今朝の聖書箇所の冒頭に、「悪魔から誘惑を受けるため」ということと「霊に導かれて」と書かれていることは矛盾するように見えます。しかしこの両面を見据えておかなければならないでしょう。それは、イエス・キリストが誘惑を受けることには、神の意志があったということです。イエス・キリスト...