交わりの神に結ばれて (マタイによる福音書28:16~20)
旧約の時代、人々が大切にした神の言葉は「シェマ(聞け)、イスラエル」と「十戒」でありました。「シェマ、イスラエル」には「我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)とあり、唯一神への帰依が謳われています。ところが新約聖書になると、神は「唯一」と共に、「父、子、聖霊」とし...
聖霊を受けて (使徒言行録2:1~13)
宗教に秀でた学者であり、またユダヤ議会の議員としても信望のあったニコデモが、ある夜、密かにイエスの許を訪ねたお話がヨハネ3章に記されています。あらゆる学問と名声を得ていても、自分の中になお足りないところがある、その空洞が、このお方によって埋められるのではないか、恐らく、それ...
心を合わせて熱心に祈る (使徒言行録1:12~26)
復活後の40日間、主イエスは弟子たちにその御姿を現わしておられたのですが、イエスが天にあげられ、彼らの視界から見えなくなってしまうと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)、と記されています。ここに、イエ...
「とりなしを祈る群れ」 コロサイの信徒への手紙 1章9~23節
今朝の聖書に「御子はその体である教会の頭(かしら)です」-コロサイ1:18より-と記されています。「教会の頭はキリスト」とのパウロの言葉を通して、私たちは深い神の思いを知ることが出来ます。 キリストを頭とする教会は、何はさておいても「とりなし」を大切にする人々の群れだと言う...
キリストの証人となる (使徒言行録1:1~11)
教会の使命はイエス・キリストによって起こされた「良い知らせ」(福音)を伝えることにあります。福音宣教とも言われます。パウロの弟子であったルカは、イエス様によってもたらされた良い知らせを詳しく書き記すことに大きな使命を感じていました。ルカ福音書の冒頭に、ローマの高官テオフィロ...
神は存在するのか? (出エジプト記3:7~15)
日本には「困った時の神頼み」と言うことわざがあります。普段は「私は無神論者」だと気取っていても、いざ足許が危うくなれば「神さま助けて」となるのです。しかし、その時に呼びかける神さまとは果たして「誰」なのでしょうか?その時だけ都合よく現れてくれる守護神なのでしょうか。受験の神...
弱さを知る者を用いて (ヨハネによる福音書21章15~17節)
主イエスが公の生涯を歩まれた3年あまりの間、それは弟子たちにとって至福の日々でした。彼らは間近で主イエスの教えを聞き、病人や差別されている人々への優しいまなざしや、正義と公平への毅然とした態度にも接してきました。そのような日々の経験から、弟子たちは、「このお方こそイスラエル...
はじめに神の赦しが Ⅱコリント6:3~13
今朝の聖書の冒頭でパウロは「わたしたちはこの奉仕の務めが 非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず・・・」-Ⅱコリント6:3-と言っています。彼は、クリスチャンには神から託された「務め」があると言っているのです。少しさかのぼって5章18節には「神は、キリストを通...
イエスさまが存在する日々 (ヨハネによる福音書20章19~23節)
イースターおめでとうございます。世界の暦の中にこの日があることは驚きです。それは「日曜日」のことです。この日がなぜ週の初めの日なのか、多くの人は気づかずに過ごしています。勿論、この日は単なる7日ごとの休日ではありません。十字架上で息を引き取られ、死んで墓に葬られたイエスが復...
「子ろばに乗って」 マルコによる福音書 11章1~11節
ここに記されている物語は、「主イエスのエルサレム入城」、そう呼ばれます。これは日曜日の出来事だと推測することができますので、「棕櫚(しゅろ)の日曜日の物語」とも呼ばれます。では、このマルコによる福音書には、棕櫚という植物の名前が出てくるわけではありません。ヨハネによる福音書...