万軍の主の熱意が (イザヤ書 6章1~6節)
人類の歴史を振り返るとき、どの時代をとらえても争いごとが繰り返されています。聖書はこの人間の姿を「罪」と言い表します。喧嘩をしたい人などいないはずなのですが、現実には自分が少しでも他者よりも優位にありたいと願い、そこから争いがおこります。仲良くしましょう、愛し合いましょう、...
世界宣教を覚える祈り (ローマの信徒への手紙 1:8~15)
人間には「祈り心」が備わっています。物心ついたころには何者かに祈りを捧げているのです。信仰心とも言えましょう。畏敬する対象を神として手を合わせます。その前に自らの無力さを思い、自他の幸せを祈ります。しかし、自分で生きる力が増してくるにつれ、祈りは自己本位となり自己実現を求め...
ユーモアの中にある輝き (ヨナ書3章10節~4章11節)
十二小預言書(ホセア書~マラキ書)の中で、最も預言書らしくない不思議な雰囲気を醸し出しているのがヨナ書です。ところが、この書は、執筆のテンポの良さと豊かな物語性のゆえに、大人から子どもまで人気があり、愛読者も多いのではないでしょうか。私自身、教会に通い始めてすぐにヨナ書にの...
「神の出来事にあずかる者」 ルカによる福音書 9章46~48節
ルカ福音書4章13節から続くガリラヤ伝道の記事を見ると、使徒たちはイエスから直に「福音」を聞いてきたことがわかります。ところが、彼らの心の中は依然として「誰が一番偉いのか」と、いたってこの世的な価値観に支配されていたのです。...
「何故」から「何のために」へ (ヨハネによる福音書 9章1~12節)
生まれつき目の見えない人を見た弟子たちは、主イエスに問いかけました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)と。日本でも古くから「親の因果が子に報い」と、生まれながらの不自由さの原因を、...
どこに立ち、何をするのか? (創世記 1章26~31節)
昨年度から、古賀教会は「信仰告白、ミッションステートメント研究班」を立ち上げて、作業を続けてきました。そして、今年度末を目指してミッションステートメント(以下、MSと記します)を策定しようと進められています。MSは最近では企業などで良く用いられる用語で、自社がどこに立ち、何...
ガザに下る道で (使徒言行録 8章26~40節)
使徒言行録が記す初期のキリスト教会の発展の様子には目を見張ります。信仰に導かれた人が「三千人」(使徒2:41)、「五千人」(同4:4)と増えて、十二使徒だけでは対応できず、信徒の中からも所謂「七人の奉仕者」(同6:5)が立てられ、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の...
「閉ざされた一人一人に」 マルコによる福音書3章31~35節
教会では、血縁関係によらず、イエスをキリストだと信じる者同士が互いに兄弟姉妹と呼び合い、そんな共同体を神の家族として捉えています。教会は、良くも悪くも色々な人がいます。それは自分が好きじゃない人もその中にはいるということです。でもある意味では、そういう人とも一緒にいることが...
「信仰という宝」 マタイによる福音書 13章44~50節
イエスの宣教のご生涯を記した福音書には、天の国とか神の国という言葉がよく使われています。マルコによる福音書1章15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエスの宣教の第一声とも言うべき言葉が記されています。私たちは普段、聖書を通読していく中で...
闇の中に伴われる神 (ヨハネによる福音書 3章1~16節)
ユダヤ最高議会を構成する議員の一人ニコデモは、自分の立場を気にしたためか「夜」という時を選んでイエスの許に訪ねてきました。彼は、尊敬の念を込めて「ラビ(先生)」と呼びかけ、「神のもとから来られた教師」と認識していることを告白しています。彼はイエスが起こしたカナの婚礼での「し...