「魂の癒やし主」 詩編42編章1~12節詩編には、ダビデの作とされる詩が数多くあります。イスラエルの王ダビデは、すぐれた詩人でもあったのです。けれども、今朝お読みする42編については、作者は「捕囚の民」の一人であるとする研究者が多いのです。詩人がエルサレムを離れ、捕囚の地ではるかに都を望み見て嘆く姿から、メッセー...
十字架上のイエスの叫び (マルコによる福音書15:33~41)私たちは、自分が苦しむときに、心の底で「この苦しみが誰にわかるか」と主張する「自己」があることを否ません。そこには苦しみを受けることを不当とする他者への訴えが隠されています。そして、救いの手が差し伸べられることを当然のこととして期待しているのです。ところが、もし、人々から遺...
交わりの神に結ばれて (マタイによる福音書28:16~20)旧約の時代、人々が大切にした神の言葉は「シェマ(聞け)、イスラエル」と「十戒」でありました。「シェマ、イスラエル」には「我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)とあり、唯一神への帰依が謳われています。ところが新約聖書になると、神は「唯一」と共に、「父、子、聖霊」とし...
聖霊を受けて (使徒言行録2:1~13)宗教に秀でた学者であり、またユダヤ議会の議員としても信望のあったニコデモが、ある夜、密かにイエスの許を訪ねたお話がヨハネ3章に記されています。あらゆる学問と名声を得ていても、自分の中になお足りないところがある、その空洞が、このお方によって埋められるのではないか、恐らく、それ...
心を合わせて熱心に祈る (使徒言行録1:12~26)復活後の40日間、主イエスは弟子たちにその御姿を現わしておられたのですが、イエスが天にあげられ、彼らの視界から見えなくなってしまうと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)、と記されています。ここに、イエ...
「とりなしを祈る群れ」 コロサイの信徒への手紙 1章9~23節今朝の聖書に「御子はその体である教会の頭(かしら)です」-コロサイ1:18より-と記されています。「教会の頭はキリスト」とのパウロの言葉を通して、私たちは深い神の思いを知ることが出来ます。 キリストを頭とする教会は、何はさておいても「とりなし」を大切にする人々の群れだと言う...
キリストの証人となる (使徒言行録1:1~11)教会の使命はイエス・キリストによって起こされた「良い知らせ」(福音)を伝えることにあります。福音宣教とも言われます。パウロの弟子であったルカは、イエス様によってもたらされた良い知らせを詳しく書き記すことに大きな使命を感じていました。ルカ福音書の冒頭に、ローマの高官テオフィロ...
神は存在するのか? (出エジプト記3:7~15)日本には「困った時の神頼み」と言うことわざがあります。普段は「私は無神論者」だと気取っていても、いざ足許が危うくなれば「神さま助けて」となるのです。しかし、その時に呼びかける神さまとは果たして「誰」なのでしょうか?その時だけ都合よく現れてくれる守護神なのでしょうか。受験の神...
弱さを知る者を用いて (ヨハネによる福音書21章15~17節)主イエスが公の生涯を歩まれた3年あまりの間、それは弟子たちにとって至福の日々でした。彼らは間近で主イエスの教えを聞き、病人や差別されている人々への優しいまなざしや、正義と公平への毅然とした態度にも接してきました。そのような日々の経験から、弟子たちは、「このお方こそイスラエル...
はじめに神の赦しが Ⅱコリント6:3~13今朝の聖書の冒頭でパウロは「わたしたちはこの奉仕の務めが 非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず・・・」-Ⅱコリント6:3-と言っています。彼は、クリスチャンには神から託された「務め」があると言っているのです。少しさかのぼって5章18節には「神は、キリストを通...