「神の国」に招かれて (マルコによる福音書 12章28~34節)
マルコによる福音書のテーマは「神の国」と考えられています。なぜならマルコは、「神の子イエス・キリストの福音」(同1:1)の言葉から書き始め、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:1...
自分の物は誰の物 (ペトロの手紙一 4章7~11節)
「あれも欲しい、これも欲しい」と、たくさんの物を手に入れたくなるときに、「わたしの物はわたしのもの、あなたの物もわたしのもの」との誘惑にかられることはないでしょうか。これを「貪欲」と言います。最近の日本が推し進めようとしている「富国強兵」の国家(経済)戦略も、実はわたしたち...
この最後の者にも (マタイによる福音書20章1~16節)
ロシアの革命家レーニンは「働かざる者食うべからず」と言ったそうです。戦後の食糧の乏しい幼年期、「お手伝いをしたら食べていいよ」などと聞かされながら食卓に着いた経験のある私にとって、この言葉に良い印象はありません。やがて青年となり教会に通い始めると、この出典が聖書であると知る...
「愛の迫りの中で」 ルカによる福音書 19:1~10
今朝は、多くの人にとってなじみ深い「徴税人ザアカイ」の物語に耳を傾けます。 さて、ルカ福音書は全体を通して「失われた者の救い」をひとつの大きなテーマとしています。15章では「迷える小羊」、「なくした一枚の銀貨」それに「放蕩息子の帰還」という三つの物語をもって、失われた者が「...
この告白に立つ教会 (マタイによる福音書16章13~20節)
ガリラヤ湖から北へ凡そ40㎞、ヘルモン山を仰ぐヨルダン川の源流にフィリポ・カイサリアがあります。私が訪れたのは若葉が萌え出る美しい季節で、九重や阿蘇高原を連想するような山ふところでした。ここは元々バニアスと呼ばれた村里で、農業や牧畜の神々を祀る牧歌的な聖地でした。しかし、ロ...
「愛をもって私の羊を飼いなさい」 ヨハネによる福音書21章15~19節
「キリストの愛」とは、イエス・キリストがその命を惜しまず捧げてくださったという、私たち人類に対する愛です。 ヨハネによる福音書21章15節以下を見ていきますと、イエス様はまずペトロに「わたしを愛するか」と問いかけます。これに応えるペトロのフィレオの愛は、いわば人間の愛です。...
豊かな貧しさを選び取ろう (コリントの信徒への第二の手紙 8章1~9節)
先日の新聞報道に、富の偏りについての驚くべき数字が記されていました。現在、世界人口は凡そ72億人ですが、その中の僅か85人の裕福な人の総資産が、最極貧から数えて36億人の保有する資産総計に等しいというのです。数年前の統計と比較してもこの格差傾向は世界的に顕著であって、日本も...
心地の良い教会 (マルコ福音書 2章1~12節)
先日、わたしたちの教会では「ビジョンを聴き合う会」が開かれました。その会話の中で、「居心地の良い教会」という言葉が私の心に残りました。これは古賀教会の現状を言い当てている言葉でもあり、まさに心地よく受けとめられる言葉でありました。しかし、はたと気づかされたのです。それは「誰...
「誘惑を受けられたイエス」 ルカによる福音書 4:1~13
マタイ、マルコ、ルカの三福音書は、イエスが宣教を開始される前に、まず悪魔の誘惑に遭われたと書いています。多くの人は、「悪魔」と聞いただけでキリスト教に対して拒否反応を起こすかもしれません。けれども、この朝登場する悪魔は「ディアボロス=誹謗・中傷する者」という性格を持った存在...
キリストの友、喜びの共有者 (ヨハネによる福音書 15章11~17節)
「世の中は起きて稼(かせ)いで寝て食って、後は死ぬを待つばかり」とは一休禅師の狂歌とされていますが、これは「あなたは何者で、何のために生きるのか」との禅問答でもありましょう。 ただ何となく生きているだけで死を待つのでは余りに空しいと言わねばならないからです。...