幸せって何だろう (マタイによる福音書 5章1~12節)
「幸せでありたい」とは全ての人の求めるところです。この場合の「幸せ」は、現状には満足せず、もっと良い生活があるはずだ、との「欲求」、良い意味で言えば積極的な「向上心」から来るものです。要するに、「今以上の」という望みが叶えられるなら、そこに「幸せ」があると考えているのです。...
神の存在証明 (ヘブライ人への手紙 1章1~4節)
わたしたちは神をどのようにして知ることが出来るのでしょうか?幼少期から“唯物論”に基づく教育を受けているわたしたちは、ともすると「神は存在しない」との見識を示すことが知識人として当然であるかのごとくに振舞います。しかし同時に、多くの人々が宗教心(信心)を大切にし、何らかの宗...
わたしに従いなさい ヨハネ21:20~25
イエスの磔刑の時にイエスから離れた弟子たちの数人は自分たちの故郷ガリラヤで網を編み生業の漁業に戻っていました。師イエスを忘れたい、記憶から消したい一心で生業に精を出していたことでしょう。否と言ったあの時の自分の行動、逃避する生き様に慙愧があったことでしょう。イエスが顕現され...
イエス・キリストにおいて (エフェソの信徒への手紙 4章3~10節)
日本バプテスト連盟の信仰宣言(1979年)には、「イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神こそ、父・子・聖霊として働かれる、唯一の、全知全能の神である。」と記されています。ここに記されている言葉は、正に聖書が私たちに伝えようとしている信仰理解の基盤をなすものであり、「成...
「復活の恵みの中で」 ルカによる福音書 24:13~35
イースターおめでとうございます。 この朝私たちはイエスがエマオという村に向かっていた二人の弟子にあらわれたと報告するルカ24章の記事からメッセージを頂こうとしています。イエスが復活された朝、婦人たちはイエスの墓に行きます。ところが、墓の入り口においてあった重い石がころがして...
受難のイエスを記憶する (マルコによる福音書 14章32~42節)
主イエスの弟子たちは、イエスの最期においても「メシア」(救い主)の意味を誤解したままでした。彼らは相変わらずダビデ時代のイスラエル国家の繁栄を期待し、その時には自分たちもそれなりの地位に就けるものと考えていました。主イエスが三度にわたり弟子たちにご自身の受難を伝えている(8...
「恵みに応えて生きる」 使徒言行録 20:22~38
今朝は、パウロが第3回目の伝道旅行の途中、ミレトスでエフェソの教会の長老たちを招いて語った説教からメッセージを頂きます。その冒頭でパウロは「今や、わたしは霊に促されてエルサレムヘ行きます」-使徒20:22より-と言っています。自分がエルサレムに行くのは、聖霊に迫られ、促され...
「神の国」に招かれて (マルコによる福音書 12章28~34節)
マルコによる福音書のテーマは「神の国」と考えられています。なぜならマルコは、「神の子イエス・キリストの福音」(同1:1)の言葉から書き始め、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:1...
自分の物は誰の物 (ペトロの手紙一 4章7~11節)
「あれも欲しい、これも欲しい」と、たくさんの物を手に入れたくなるときに、「わたしの物はわたしのもの、あなたの物もわたしのもの」との誘惑にかられることはないでしょうか。これを「貪欲」と言います。最近の日本が推し進めようとしている「富国強兵」の国家(経済)戦略も、実はわたしたち...
この最後の者にも (マタイによる福音書20章1~16節)
ロシアの革命家レーニンは「働かざる者食うべからず」と言ったそうです。戦後の食糧の乏しい幼年期、「お手伝いをしたら食べていいよ」などと聞かされながら食卓に着いた経験のある私にとって、この言葉に良い印象はありません。やがて青年となり教会に通い始めると、この出典が聖書であると知る...