キリストから迫り来る恵み (エフェソの信徒への手紙1:3~7)去る6月27、28日の二日間は、加来国生先生(筑紫野二日市教会牧師)をお迎えして「初夏のキリスト教の集い」が開催されました。私も、教会の方々による細やかな奉仕や、共に伝道することの苦労と喜びに与ることができて、感謝でいっぱいです。蒔かれた種がいつの日か実を結び刈り入れの時を...
「チャンス、チャレンジ、チェンジ」 ルカ19:1~10、イザヤ43:4、ヨハネ3:16昨年、「ザ・テノール―真実の物語―」という映画が福岡で上映され、私は、前売り券を購入し、11月3日月曜日に博多駅ビルの映画館に行きました。ところが、その前の週の金曜日に上映が終了していました。映画館の人に尋ねると、私のチケットは全国共通券なので、全国どこででも見ることができ...
幼子のような者に (マタイによる福音書11:25~30)主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と呼びかけてくださいます。この箇所はルカ福音書10章の並行記事から推測しますと、伝道に派遣された72人の弟子たちがイエスのところに帰ってきて報告した時に、主イエス...
「魂の癒やし主」 詩編42編章1~12節詩編には、ダビデの作とされる詩が数多くあります。イスラエルの王ダビデは、すぐれた詩人でもあったのです。けれども、今朝お読みする42編については、作者は「捕囚の民」の一人であるとする研究者が多いのです。詩人がエルサレムを離れ、捕囚の地ではるかに都を望み見て嘆く姿から、メッセー...
十字架上のイエスの叫び (マルコによる福音書15:33~41)私たちは、自分が苦しむときに、心の底で「この苦しみが誰にわかるか」と主張する「自己」があることを否ません。そこには苦しみを受けることを不当とする他者への訴えが隠されています。そして、救いの手が差し伸べられることを当然のこととして期待しているのです。ところが、もし、人々から遺...
交わりの神に結ばれて (マタイによる福音書28:16~20)旧約の時代、人々が大切にした神の言葉は「シェマ(聞け)、イスラエル」と「十戒」でありました。「シェマ、イスラエル」には「我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)とあり、唯一神への帰依が謳われています。ところが新約聖書になると、神は「唯一」と共に、「父、子、聖霊」とし...