「本当の平和とは?」 マタイによる福音書10章34~39節
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである…」-マタイ10:34より-。イエスの衝撃的な言葉は、私たちに何を教えているのでしょうか。 戦後70年、私たちの国は永久に戦争を放棄した「日本国憲法第9条」の精神に反して「戦...
愛されているのですから (コロサイの信徒への手紙3章12~17節)
毎年この季節になると「平和」という文字が飛び交います。しかし、昨今よく話題になる「積極的平和主義」には違和感を禁じ得ないのです。自衛隊を友好国の戦闘にも参加させる「積極策」で有事に強い抑止力となる、というものです。しかし、このような「強力な軍事力」をもって「積極的平和」と語...
神を知る道を歩もう (詩編19編 2~11節)
日本は宗教人口2億人以上と言われます。人口の約2倍になります。この特異性は、5年ごとに世界の主要大学が協力して18歳以上で無作為の人々1000人を対象に行われる宗教調査にも現れます。この調査の中に「神の存在」「死後の存在」についての問いがあり、「ある」との回答が、イスラム圏...
神のシャロームを! (ローマの信徒への手紙8:18~22)
聖書はその冒頭で神による天地創造を記し、「見よ、それは極めて良かった」と御自分の手の業を絶賛しています。実に全被造物は神の喜びとして創造されているとの宣言です。この「極めて良い」あり様こそが「神のシャローム(平和)」なのです。完全な調和、完全な喜び、完全な関係、「シャローム...
「なぜ思い悩むのか」 マタイによる福音書6章25~34節
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」-マタイ6:34-。 私たちにとって、「明日」という日は、ある場合に大きな悩みの種であることが多いものです。10年後、20年後、私は、そして私の家族は何処で何をしてい...
キリストから迫り来る恵み (エフェソの信徒への手紙1:3~7)
去る6月27、28日の二日間は、加来国生先生(筑紫野二日市教会牧師)をお迎えして「初夏のキリスト教の集い」が開催されました。私も、教会の方々による細やかな奉仕や、共に伝道することの苦労と喜びに与ることができて、感謝でいっぱいです。蒔かれた種がいつの日か実を結び刈り入れの時を...
「チャンス、チャレンジ、チェンジ」 ルカ19:1~10、イザヤ43:4、ヨハネ3:16
昨年、「ザ・テノール―真実の物語―」という映画が福岡で上映され、私は、前売り券を購入し、11月3日月曜日に博多駅ビルの映画館に行きました。ところが、その前の週の金曜日に上映が終了していました。映画館の人に尋ねると、私のチケットは全国共通券なので、全国どこででも見ることができ...
幼子のような者に (マタイによる福音書11:25~30)
主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と呼びかけてくださいます。この箇所はルカ福音書10章の並行記事から推測しますと、伝道に派遣された72人の弟子たちがイエスのところに帰ってきて報告した時に、主イエス...
「魂の癒やし主」 詩編42編章1~12節
詩編には、ダビデの作とされる詩が数多くあります。イスラエルの王ダビデは、すぐれた詩人でもあったのです。けれども、今朝お読みする42編については、作者は「捕囚の民」の一人であるとする研究者が多いのです。詩人がエルサレムを離れ、捕囚の地ではるかに都を望み見て嘆く姿から、メッセー...
十字架上のイエスの叫び (マルコによる福音書15:33~41)
私たちは、自分が苦しむときに、心の底で「この苦しみが誰にわかるか」と主張する「自己」があることを否ません。そこには苦しみを受けることを不当とする他者への訴えが隠されています。そして、救いの手が差し伸べられることを当然のこととして期待しているのです。ところが、もし、人々から遺...